実際経験がなければ美が分からない

竹の絵をたくさん見る機会に恵まれた。水墨画の主題として、中国でも日本でも、数多くの竹が描かれている。たくさん見れば見るほど、竹はなんて美しいのだろうと思うようになった。一本の竹、竹林、梅やいろいろなものと組み合わせた竹、どれもかっこいい。余白とのバランスもある。墨の濃淡、書道のように筆の勢いとかかすれた表現、もうとにかく息をのむしかなくて、昔の人が何度も竹を描きはったのはよく分かるなぁって感じ。

竹の絵を見ているうちに、実際の竹も美しいと思うようになった。胴のまるみ、葉の尖った鋭角、太すぎもせず細すぎもせず揃っている感じ。竹林に日が射し込む独特の明るさとか、土に古い葉が落ちてふわふわ厚みが出ている感じとか。幹の艶、節の線の黒さ、そういうものも目に入るようになった。

地元の奈良では、立派な竹をよく見かける。神事には竹が欠かせなくて、大神神社に飾る正月飾りには、いつも幹の太い真竹を探してくるそう。直径10cm以上もの竹に、お花や松を差しているのは壮観。去年の夏に、十津川のお宮さんの鳥居をかけかえる祭でも、西吉野から竹を運んでくると言っていた。

実際の経験って大事なんやと思う。絵が先か、実物が先か、どちらにしても、どちらの美しさにも気づけるために、本物を見るのが大事なんやろうと思う。絵と実際の竹を見て、つくづくそう思う。

竹は、きっと竹林の中で見るのがいい。ビルの植え込みなんかで数本だけ植えられた竹は寂しい。葉が生き生きした緑じゃなくて、弱々しくて枯れちゃいそう。ああいうものを見ていても、昔の水墨画が美しいとは思わないと思うんよな。

新築マンションを造る時には、売り出し用のイメージ図通りに、例えば玄関先に梅や竹を描いたら意地でも絵の通りに植えるのだと聞いた。めでたそうやから竹、梅は多く選ばれるのやろうと思う。でもそれが、その土地の植生に合うかといえば、また別問題。竹だって弱々しくて当たり前。そういうのってちょっと悲しい。