自然への敬意、工学のこと

東日本大震災以降、自分が工学系の大学出身だということを意識する機会が多い。地震で崩れた「日本の安全神話」はじめ、地震について知る時の知識がほとんど理系分野のものだと思われているからやと思う。世の中一般的には文系理系の二種類に分けられるので、私は「理系」なのだけれど、はっきり言って理系なんて分野が広すぎるし、知識としても細かく分かれているので、私には分からないことだらけ。とはいえ、分からないと言えば言うほど理系のくせにものを知らないと非難をうけて、なんだかかなしくなる。自分の気持ちが悪循環して、しばらくなんだかよく分からなかった。

地震からの数日、東京にいると、まわりが情報を消費している感じが強烈に気持ち悪かった。地震津波原発事故、すべての映像は映画を見ているようだと人はいう。テレビのニュース番組のカメラ担当の友人でさえ映画を見ているようだったというのだから、見ている方は間違いなく映画のように今回の地震の様子を見ていたのやと思う。

それを見ていて、唐突で直観的な言い方やけれども、みんな壊れる日本を見たいんやなぁと思った。見て、あぁだめだと思って、がんばろう日本という分かりやすいスローガンのもとに結集した感覚を味わう、そういうのが欲しかったのやろうと思ってしまった。


私は工学部の学生としてはできが悪いままで卒業したけれども、根本として「ものは壊れる」という感覚は持っている。機械は、壊れる。それが根本にあれば、壊れたからといって騒ごうと思わないし、壊れると知っていたのに「隠していた」とかそういう気持ちにはならない。


地震後、理系としてすべてのできごとに対して説明を求められた。私は直感的にはいろんなことを思っていたけれども、それを論理的説明するほどの知識と語彙を私は持っていない。だから、その直感的なことは人にとても伝わりにくくて、理系のくせにちゃんとしていない、ということで地震後に人から怒られることが多かった。結局、自分自身の問題として理系を考えざるを得なくて、悪循環の堂々巡り。


工学と理学は、自然科学への考え方がまるで違う。理学の基本が真理の探究ならば、工学は物づくりの技術屋さんに過ぎない。工学部と理学部では、お互いにバカにしあっている部分もあって、実際に私が大学生の時に、理学部の友達とケンカをしたことがある。理学部の言い分が「工学なんて絶対にノーベル賞は取れない」ならば、こちらの言い分は「理学部は絶対に特許を取ることはできない」。どちらが良い悪いではなくて、学問としての自然へのアプローチの仕方が違うのだから、それは仕方がない。

工学は本当にざっくりした学問やと思う。「何かを機械を使って動かす」というのが基本。動く機械を作るためには、真理がどうであれ、現象を再現できればOKというのが大きな考え方と言っていいと思う。もちろん、最初から壊れていいとはまったく思っていなくて、できる限り正確に、できる限り精度を上げられるように、日々日々研究が続けられている。

でも、繰り返すけれども真理の探究は目指していない。だって、自然の力は本当にはかりしれないもので、人間が作った機械ごときが自然の真理のままに動くわけがないのだから。真理の探求を始めてしまうと、機械なんて永遠に作れない。

産業ロボットがたった一本の釘をうつのでさえ、大変なこと。基本理論はシンプルだけれど、釘の材質、打ち込む板の木目、その日の天候、機械の新旧、電源の安定、風の強さすべてのバランスをふまえるためには、外乱を排除する数式と、その都度の命令系統、動作系統をきれいに説明できる複雑な場合分けと、その場合分けを正確に機械の言葉に置き換える、要するにプログラミングが必要になる。自然の中で職人がやればできることを、機械に置き換えるのは本当に緻密なバランスの上に成り立っている。

そういう意味で、理系の人は、自然に対して謙虚であり続けていると思う。人間が絶対に自然にかなうことはないと知り尽くしているから。

理系として持たれるイメージは、足し算引き算が得意、理屈っぽい、理論立てて話を進めるのが得意、自然科学全般の知識を何でも知っているということらしい。残念ながら、私はすべて当てはまらない。でも、工学を修めた一人として、自然への敬意は十分に持ち、技術に対する想像力は持っている。