食事と仏事

先日、尊敬する料理人が食事する姿を見て感動した。食べる姿が美しい。長い腕を伸ばしてお箸で料理をつまんで、口に入れて咀嚼する。その一連の動作に無駄がなく、箸で切るのは一口分、口に入れれば表情穏やか、冷たいものは冷たいうちに、温かいものは温かいうちに、淡々と食べ物を口に運ぶ様子が見ていて清々しかった。

彼が主催する会の打ち上げの席のこと。幹事の彼は、前菜、メイン料理、しめの食事と、コース料理に見合うようなメニューを人数に見合った数だけ迷わず注文して、あとは黙って微笑んでいた。宴会という名目の時間だったのに、食べながらおしゃべりを楽しみましょうとか、宴会独特の、ある意味で内容のない会話で時間を埋めていく空気が一切ない。最初は静かな時間にびっくりした。宴会なのだから親睦を深めるために何か会話をした方がいいのではないかと思ったけれども、幹事がそんな様子だからそれはそれ。私にとっては居心地良く、そうこうするうちに料理人が食べる姿に見惚れてしまった。

食事といえば、奈良の二月堂お水取りを思い出す。お水取りの本を読んだ時に一番最初に驚いたのは、食事作法のことだった。毎年、お水取りの任務を担当する練行衆にとって、食事は正に修行の一つとなっている。お水取り当日までの二週間、食事は厳密な決まりのもとにすまされるという。献立はもちろん菜食だし、食事の前に何時間も祈りを捧げて、食事の時間は何分間とか、作法がいろいろ決められている。

修行の本質的な意味は、今の私には到底理解できていないけれども、人間世界から神様のところに祈りを捧げる人、火を預かって懺悔をする立場の人が自身を清めるために、食事は大きな神事ということなのだと思う。

毎日、食に関わり、命に関わる料理人が、美しい姿で食事しているのは理にかなっているんやろうと思う。

そういえば、食事という言葉自体にも心ひかれる。「飯、食った?」というのと「あなた食事した?」というのではニュアンスが全然違う。私の大好きな人たちが、昼の休憩の頃にいつもちゃんと食事という言葉を使っていて、それだけできれいな印象をうける。食事って豊かなものだと思う。